SHIBUYA × WATCH
西武渋谷店が9月30日、58年にわたる営業を終えた。1968(昭和43)年4月19日の開店以来、ファッション、アート、音楽、映画、演劇、広告などを通じて渋谷カルチャーをけん引してきた百貨店が、その歴史に幕を下ろした。


最終日、開店前から行列ができていた。中でも人気のレストラン「Top's」のカレーとチョコレートを食べ納めようと、行列に加わる人びとの姿が目立った(撮影=2026年9月30日午前9時50分頃)
最終日の営業は午前10時に始まった。小雨が降りしきるなか、開店前から多くの買い物客が列をつくった。朝から夕方まで人の流れは途切れることなく、西武渋谷店との思い出を振り返る人や、最後の姿を写真に収めようとする人たちでにぎわった。

小雨のなか、片手に傘、もう一方にスマートフォンを手に持ち、最後の瞬間を撮影しようと、閉店を見守る人びとが歩道を埋め尽くした(撮影=2026年9月30日19時55分頃)
閉店時刻は20時。「閉店セレモニーは実施しない」と事前に告知されていたものの、時刻が近づくにつれ、店舗前には長年同店を利用してきた買い物客や、最後の瞬間を見届けようとする人たちが集まった。閉店まで30分を切った19時30分過ぎには、A館前の歩道を埋め尽くすほどの人だかりができた。長年、買い物などで親しんできた西武ファンや閉店を取材する報道陣に加え、街を行き交う外国人観光客や仕事帰りの人たちも足を止め、閉店の瞬間を見守った。

徐々に降りていく黒いシャッターを見守る人びと(撮影=2026年9月30日20時4分頃)
20時4分過ぎ、スタッフによるあいさつなどのセレモニーは行われないまま、黒いシャッターがゆっくりと降り始めた。見守っていた人たちからは「西武、ありがとう」と声が上がり、拍手を送る姿も見られた。
渋谷のカルチャーを長年けん引してきた百貨店。そのシャッターが閉じた瞬間、一つの時代も静かに幕を下ろした。
「東急の街」に乗り込んだ西武
西武百貨店渋谷店が開店した1968(昭和43)年。当時の渋谷は、現在のような若者文化の発信地ではなかった。鉄道ターミナルとして多くの人が行き交う一方、商業地としては新宿などに後れを取り、街のにぎわいも駅周辺に集中していた。そんな渋谷が大きく変わるきっかけの一つとなったのが、1967(昭和42)年11月の東急百貨店本店と、翌1968(昭和43)年4月の西武百貨店渋谷店の相次ぐ開業だった。
東急100年史によると、東急百貨店本店の開業は、当初から計画されていたものではなかったという。1964(昭和39)年の東京オリンピック後、スポーツへの関心が高まることを見込み、大向小学校跡地を取得した東急は、当初、この場所に大型スポーツセンターを建設する構想を持っていた。しかし、西武百貨店が渋谷への進出を計画していることを知り、急きょ百貨店建設へと計画を変更したとされる。昭和初期から東急グループが鉄道と街づくりを進めてきた渋谷。その「東急の牙城」に西武という思わぬライバルが現れたことが、東急に百貨店本店の開業を決断させた格好だ。

「西武渋谷店」との競争で生まれた「東急百貨店本店(閉店)」(撮影=2023年5月)
さらに東急100年史によれば、西武進出を知った当時の東急社長・五島昇氏は、西武百貨店の実質的な社長として経営を任されていた堤清二氏との会談を持ちかけたという。先代の五島慶太氏と堤康次郎氏が、かつて箱根などで激しく競った歴史とは異なり、西武の渋谷進出を歓迎し、互いに「よきライバル」と認め合い、渋谷の地位を高めていく道を選んだ。実際、西武開店前後に実施された来街者通行量調査(渋谷再開発促進協議会)では、栄通り(現、文化村通り)や神宮通り(現、公園通り)、センター街などで人の流れが増加。駅前に集中していた渋谷のにぎわいは、次第に街の奥へと広がっていった。
百貨店から街へ――「シブヤ」を編集した西武
西武が渋谷にもたらしたものは、大きな売り場だけではなかった。ファッションを売る。家具や雑貨を売る。食品を売る――。そうした従来の百貨店の枠を超え、アートやデザイン、音楽、映画、演劇などを商業と結び付け、「どんな暮らしをするのか」「どんな文化を楽しむのか」というライフスタイルそのものを提案していった。

「渋谷PARCO」誕生をきっかけに公園通りの坂上まで新たな人の流れを生み出し、渋谷の街の奥行きを広げた
その動きは、やがて百貨店の建物の外へと広がっていく。1973(昭和48)年には渋谷PARCOが開業。館内には「西武劇場」(現・PARCO劇場)が設けられた。劇場側が作品を自ら企画・プロデュースするという、当時としては先駆的な手法を採り入れ、演劇や音楽をはじめとする新たな表現を発信した。PARCOは現在も、その原点に「インキュベーション」「街づくり」「情報発信」を掲げている。
西武百貨店も、若い日本人デザイナーに早くから光を当てた。川久保玲さん、イッセイミヤケさんらの作品を紹介し、後に「DCブランド」と呼ばれるデザイナーズファッションが街を席巻していく土壌の一つをつくった。
渋谷は次第に、商品を買うためだけに訪れる街から、「新しい何かに出会う街」へと変わっていった。その象徴の一つが、「渋谷」ではなく、カタカナで表記された「シブヤ西武」という名称だった。それは単なる店舗名ではなく、既存の地名だった「渋谷」を、新しいファッションや文化が生まれる都市「シブヤ」へと読み替えていこうとする、当時の空気を象徴していたようにも映る。
PARCO、SEED、LOFT――街へ広がったセゾン文化
西武・セゾングループによる文化発信は、さらに渋谷の街へと広がっていった。1973(昭和48)年の渋谷PARCO開業に続き、1980年代には周辺に個性的な施設が相次いで登場する。1986(昭和61)年には、ファッションやカルチャーを独自の視点で編集して発信する「SEED館」がオープン。翌1987(昭和62)年には、西武渋谷店の雑貨専門館として「渋谷ロフト」が開業した。現在、全国に店舗を展開するロフトの1号店である。生活用品を機能や用途ごとに並べるだけではなく、「時代の空気」を切り取り、特に目的がなくても訪れれば何かを発見できる――。そんな店づくりは、当時としては新鮮だった。さらに1988(昭和63)年には渋谷CLUB QUATTROが開業。PARCO劇場などとともに、音楽や舞台芸術の発信拠点となっていった。

左=1986年にオープンした「SEED館」は、新進気鋭の若手クリエイターやデザイナーズブランドを集積されたファッションビルだった。その後、モヴィータ館に改称され、現在は7階まで「無印良品」、かつて「THE SEED HALL」などがあった上層階は西武百貨店の事務所となっている 右=1987年にオープンした「渋谷ロフト」

ロフトと西武B館の間の道は「間坂(まさか)」と名付けられ、井の頭通りと公園通りをつなぐバイパスのような抜け道として親しまれている。パルコへ続く「公園通り」や「スペイン坂」と同じく、ストリートと商業施設をシームレスにつなぐ街づくりも、渋谷らしい都市文化の一つとなった
百貨店、ファッションビル、劇場、ライブハウス、雑貨店。それぞれは別々の施設でありながら、街を歩き、施設から施設へと回遊することで、一つの大きな文化空間を形成していく。この「街全体を編集する」という発想こそ、セゾン文化が渋谷に残した大きな足跡の一つだった。
東急との競争がつくった「若者の街」
西武・パルコによって公園通り方面へ若者が流れ始めると、東急も新たな一手を打った。1978(昭和53)年には東急ハンズ渋谷店、1979(昭和54)年には「ファッションコミュニティ109」(現・SHIBUYA109)が開業した。東急100年史にも、渋谷PARCOの開業後、公園通り方面へ人が流れる状況を受け、「巻き返しを図る必要に迫られた」と記されている。109やハンズの開業という策を打ち、公園通り方面へと流れていた人の流れを変え、「面」として街の回遊性を高めようとした東急の試みが見える。


左=オープン当初、109は25歳以上の女性をターゲットとしていたが、1990年代にルーズソックスが流行すると、次第に「ギャルの聖地」へと変貌した。109後方には、1985(昭和60)年に開業したセゾングループ運営の「ザ・プライム」が見える。かつて上層階にはミニシアター「シネセゾン渋谷」、2階には日本のフードコートの先駆けとなる飲食フロアがあった。 右=西武渋谷店を追うように、今年11月に閉店する「ハンズ渋谷店(旧・東急ハンズ渋谷店)」
西武が新しい文化やファッションを持ち込み、そして、東急がそれに応える。現在の渋谷をつくったのは、どちらか一方だけではない。両者が異なる価値観を持ち込みながら競い合ったことで、公園通り、センター街、文化村通り、道玄坂へと人の流れが広がった。 そうした競争の中で、1970~80年代、現在につながる「若者の街・渋谷」の輪郭が形づくられていった。

「最初で最後」の西武と東急のコラボレーションとして広告キャンペーンを展開
今回の閉店発表に伴い、長年のライバル関係であった西武渋谷店と東急百貨店が、「感謝を、西武渋谷店に。東急百貨店に、エールを。」をキービジュアルにした広告キャンペーンを共同で展開したのは、こうした歴史を踏まえると大変考え深い。
白い格子と連絡通路も「渋谷の風景」に

白い格子状の外壁が特徴の「西武渋谷店」
建物そのものもまた、半世紀以上にわたって渋谷の風景をつくってきた。1968年に完成したA館とB館は、外壁を覆う立体的な格子状のデザインが特徴。宇田川を暗渠化した井ノ頭通りを挟んで向かい合う2館を、上空の連絡通路が結ぶ独特の景観は、多くの人にとって見慣れた「渋谷の風景」となった。

A館とB館の間には宇田川が流れており、地下通路が作れないことから、3階、5階、屋上階の3フロアにA館とB館をつなぐ連絡通路がかけられている。一般には公開されていないが、地下3階には川の下をくぐる形で従業員向けの業務用通路があるという

西武渋谷店A・B館、パーキング館、モヴィータ館、ロフト館のフロアマップ。限られた敷地や宇田川などの地形的な制約を乗り越えながら、複数の建物を連絡通路でつなぎ、売り場を拡張してきた。その複雑な構造は、渋谷駅にも負けない「ダンジョン」だ
この場所には百貨店ができる以前、映画館「渋谷松竹映画劇場」や「渋谷国際」があった。映画館の街から百貨店へ。そして、その百貨店を起点に映画、演劇、音楽、ファッションといった文化が再び街へ広がっていった。場所の記憶もまた、不思議な連続性を持っている。
「おいしい生活。」が問いかけたもの
1980年代、西武百貨店をはじめとするセゾングループは、商品の機能や価格だけではなく、広告やデザイン、文化を通して消費者の感性や想像力を刺激する、独自の文化戦略を展開した。
その象徴の一つが、西武百貨店の広告だった。
糸井重里さんがコピーを手がけ、浅葉克己さんがアートディレクターを務め、映画監督・俳優のウディ・アレンさんを起用した広告「おいしい生活。」など、商品そのものを説明するのではなく、「どんな生活を送りたいのか」を問いかけるような広告が街を彩った。
モノを買う場所でありながら、その向こう側にある暮らしや文化を想像させる。当時、堤清二氏が提唱した「感性経営」は、今日の「モノ消費からコト消費」という消費トレンドをいち早く捉えた先進的なものだった。西武渋谷店と、その周辺から生まれたPARCOやLOFTなどは、そうした思想を都市空間そのものとして表現した存在でもあったと言えるだろう。
百貨店は消えても、「シブヤ」は残る
そして、時代は変わった。2020年には東急百貨店東横店、2023年には東急百貨店本店が営業を終了。そして2026年、西武渋谷店も店を閉じる。長年にわたり渋谷を代表してきた伝統的な百貨店が、相次いで街から姿を消すことになった。東急百貨店は現在、渋谷ヒカリエ内の「ShinQs by TOKYU DEPARTMENT STORE」や「渋谷東急フードショー」、渋谷スクランブルスクエアの「東急フードショーエッジ」「+Q(プラスク)」など、街の各所に売り場を分散させる形で、顧客との接点を残している。一方、衣食住から文化までを一つの建物に集めた、昭和の面影を残す旧来型の百貨店は、渋谷から姿を消す。
百貨店が街の中心となり、人の流れや文化を生み出した時代から、商業施設や専門店、飲食店などが街全体に広がる時代へ。西武渋谷店の閉店は、渋谷の商業の大きな節目を象徴する出来事ともいえそうだ。
今回の渋谷店の閉店について、西武渋谷店を運営するそごう・西武によると、土地・建物の権利者とは20年近くにわたり店舗全体の再開発について協議を重ねてきたという。2024年、権利者側からA館、B館、パーキング館の再開発着手について正式な通知を受け、その後、賃貸借契約の終了と建物の明け渡しを求められた。交渉を続けたものの合意には至らず、営業終了を決めたという。西武渋谷店の営業終了後も、ロフト館とモヴィーダ館は、それぞれ単館として営業を続ける。

PARCO、ロフト、劇場、ライブハウス、ファッション、広告、アート――。西武・セゾンが渋谷にまいた「種」の多くは、姿や運営主体を変えながらも、今なお街の中に残っている。街を一つの商品として完成させるのではなく、そこを訪れた人が歩き、発見し、自分なりの楽しみ方をつくっていく。そう考えれば、現在の渋谷に当たり前のようにある「多様な文化が混ざり合う街」という性格の中にも、西武が残したDNAを見ることができる。
そして、最後のシャッター

ゆっくりと降りていく黒いシャッターを見守る人びと(撮影=2026年9月30日20時4分頃)
20時過ぎ、買い物客を送り出したスタッフがA館入口のドアを閉めた。スタッフによる閉店セレモニーは一切なく、やがて黒いシャッターがゆっくりと下り、「SEIBU」の入り口が少しずつ見えなくなっていった。
別れを惜しみ、店頭に集まった人たちから「ありがとう」といった声が飛び、拍手が送られた。

黒いシャッターが閉じ、正面入口(エントランス)にある柱に組み込まれたLEDビジョンも消えた。もう二度と開くことはない(撮影=2026年9月30日20時6分頃)
58年前、「東急の街」に乗り込んだ西武。そこからPARCOへ、公園通りへ、さらに渋谷の街全体へと文化を広げていった。百貨店としての西武渋谷店は、この日、58年の歴史に幕を下ろした。それでも、この街を歩けば、PARCOがあり、ロフトがあり、劇場やライブハウスがあり、ファッションやアートが交差している。西武がつくろうとした「シブヤ」は、最後のシャッターが下りた後も、街の中に残り続ける。








