SHIBUYA × INTERVIEW
FTF株式会社取締役会長
<前編>レコード文化の灯を守り続け、渋谷から次の世代へつなげていく。
2026-07-17
栃木県出身。1994年に通信販売専門の中古レコード店「Face Records」を開業し、1996年には渋谷・宇田川町に実店舗をオープン。2016年にはアメリカ・ニューヨークに「Face Records NYC」を開店した。現在は東京、札幌、名古屋、京都、福岡、ニューヨークに店舗を展開するFTF株式会社の取締役会長を務める。2026年5月、渋谷という街の記憶を掘り起こす『The History of Record Stores in Shibuya ~& Beyond 渋谷、レコード店の歴史、そして、それ以上の何か』を出版。
個性豊かなレコード店が密集し、世界中の音楽ファンをひきつけてきた渋谷・宇田川町。ここで30年にわたり中古レコードショップ「Face Records」を営んできた武井進一さんは、渋谷のレコード文化をけん引してきた一人だ。「レコード村」とも呼ばれた宇田川町の移り変わりを間近で見つめてきた武井さんに、この地の今昔やレコード文化の未来について聞いた。
新しいカルチャーを求めて渋谷に通い
レコード文化にも出会った。
武井さんが音楽やファッションなどのカルチャーにひかれた原体験について教えてください。
栃木県出身の僕は、中学生の頃から雑誌『POPEYE(ポパイ)』などを読んでは、東京に憧れの気持ちを募らせていました。それで半年に一度は渋谷や原宿に洋服を買いに来るようになったんです。音楽には興味がありましたが、まだレコードを買うというほどでもなかった頃、偶然、宇田川町の「GREEN ONIONS」という店に迷い込んだことが、私にとっての大きな出会いになりました。
当時は50年代ブームの真っ只中だったんですけど、街にあるものの多くは復刻品だったんですね。ところが、GREEN ONIONSには、雑貨や看板のオリジナル品と一緒にレコードも並んでいました。「これが本物なのか」って感じて、中学生ながらに、その経年劣化した感じとか、シャビー(古びた味わいのある)な雰囲気がカッコよく見えたんですよね。振り返ると、あの瞬間が今の私の原点だったのかもしれません。

本格的に音楽の世界にのめり込むきっかけは何だったのでしょうか。
音楽にのめり込んだ背景には、カルチャー雑誌の影響もありました。『宝島』みたいなファッションと音楽がリンクした雑誌を読み漁って、最初は自分でもパンクバンドを組んで演奏していたんです。しだいに興味の対象はスカ、レゲエ、ジャズ、ソウル、ラテン、ブラジル音楽へと広がっていきました。
特に大きな転換点となったのは、藤原ヒロシさんの存在です。彼がDJというスタイルを広めて、「こういう表現ができるんだ」ってことを若者に知らしめたんですね。私は高校を中退してフリーター生活を送るようになったんですけど、そこからはバイト代のすべてをレコードにつぎ込むようになって。17歳でDJを始めて、レコードを買う量はさらに加速していきましたね。
80年代後半には第一期のDJブームが訪れて、Vestax(ベスタクス)から家庭用の安いミキサーが発売され始めました。桑原茂一さんが「日本音楽選曲家協会」を立ち上げたのもその頃で、「自分もこういうところに入りたいな」って考えていましたね。僕はスクラッチを追求するタイプではなく、レゲエやパンクといった、どこか「古い音楽」にひかれていて。根底に「古いもの」が好きだという感覚があるのでしょうね。その頃から、宇田川町には輸入盤店が集中しており、海外の最新レコードがリアルタイムで入ってきましたし、タワーレコード内の「タワーブックス」なんかで輸入雑誌が手に入る環境があったんですよね。レコードと雑誌の両方が買いやすかったから、気がつけば他のどの街よりも頻繁に渋谷へ通うようになっていました。

90年代の宇田川には
カルチャーが生み出される「隙間」があった。
輸入レコードのショップを開業した経緯を教えてください。
通販のレコード店でアルバイトとして働き始めた経験が大きなきっかけです。ロンドンに買い付けにも行かせてもらう機会があったのですが、これが私にとって非常に大きな衝撃だったんです。当時のロンドンには、日本にはまだ入ってきていないレコードが山のようにあって、日本に持ち帰るとすぐに売り切れちゃうんですよ。売れたからまたすぐに買い付けに行くというサイクルを繰り返す中で、輸入中古レコードビジネスの熱量を肌で感じました。
その後、その店をやめることになり、もう自分でやらざるを得ないという状況になったのが、独立の直接的な理由ですね。まずは、横浜の自宅で通販専門店としてスタートしました。まだ通販のレコード屋は全国でも50社ほどもない珍しい存在でしたね。ただ、「在宅ワーク」という概念も世の中にありませんでしたから、いろいろやりにくいこともあり、将来性も考えて、1996年に渋谷で実店舗をオープンさせることにしました。

シスコ坂に店舗を構えて30周年を迎えた「Face Records渋谷店」
出店場所を渋谷の宇田川町に決めた理由を教えてください。
最大の理由は、1992年にマンハッタンレコードが宇田川町へ移転してきたことですね。ブラックミュージックを扱う人間にとって、マンハッタンレコードの平川雅夫さんは非常にリスペクトされる存在で、その動向は業界全体に大きな影響を与えていました。それが一番の理由だと思います。
あの頃の渋谷は、今とは少し雰囲気が違っていました。個人の家や古い建物、空きビルがまだたくさん残っていて、家賃が比較的安い店舗物件も結構あったんですよね。そこに、海外の最新レコードがリアルタイムで入ってくる輸入盤店も集中していて、レコード屋を始めるには、本当に刺激的な環境が整ってたんです。そういう「隙間」のような場所から、カルチャーが生み出されていたのでしょうね。

シスコ坂の入口に店舗を構えるマンハッタンレコードは、宇田川町のレコードカルチャーをけん引してきた存在だ
全盛期のレコードの質量は圧倒的。
世界中からヴァイナル・ディガーが集まった。
開業当時の渋谷は、どのような状況だったのでしょうか。
1996年の渋谷は、まさにレコード文化が全盛期に向かおうとしている時期でしたね。タワーレコードやマンハッタンレコード、WAVE、CISCO(シスコ)、ダンスミュージックレコードといった有力店が軒を連ね、レコードを買うという行為自体が今とは比べものにならないほど盛り上がっていました。特に宇田川町に関しては、小さなビルの1フロアに何軒もの専門店がひしめき合い、世界的に見ても稀なほどのレコード店の密集地帯になっていたんです。
インターネットが存在しない時代でしたけど、入荷情報の伝達スピードは驚異的でした。口コミだけで情報は瞬く間に拡散されて、レコードの放出日には多くの若者が徹夜で列を作る光景が日常的に見られました。また、多くの店で店主が自ら世界中へ買い付けに赴いていたので、街全体の品ぞろえは質・量ともに圧倒的なレベルにあり、アメリカやイギリスの最新盤がほとんど時差なく店頭に並んでいました。だから、海外のミュージシャンやDJが来日時に渋谷でレコードを買うことがある種のトレンドになっていて、ロサンゼルスで仕入れた盤を現地のDJが渋谷で買って帰るといった逆転現象が起きるほど、世界中からヴァイナル・ディガーが集まる街だったんですよね。
その一方で、ショップ同士に連帯感があったわけではありません。店主は皆、一匹狼のような気質でしたから(笑)。組合を作ろうという動きも何度かありましたけど、結局は立ち消えになりましたね。そんな個々のこだわりが刺激的な街でもあったのでしょうね。

その後、全盛期からどのような変遷をたどったのでしょうか。
店舗数の推移を見ると、2001年頃がピークだったと記憶しています。その頃を境に状況は急変しました。2008年にシスコが閉店したことは、一つの象徴的な出来事でしたね。衰退の大きな要因は、デジタル化の波です。Napster(ナップスター)などのダウンロードサービスやiPodが登場したほか、CDJ(CDでDJをする機材)の普及などもあって、私自身も「これはもう終わりかな」と感じるほどの逆風が吹きました。最も店舗が減った時期には、宇田川町のレコード店は10軒ほどにまで落ち込んだのではないでしょうか。
ただ一方では、急激なデジタル化の揺り戻しのような価値観も芽生えていました。2010年頃、アメリカのシアトルやニューヨークのブルックリンを中心に、「ヒップスター」と呼ばれる人たちの新しいライフスタイルが注目され始めました。彼らは、スターバックスなどでエスプレッソやラテを楽しみ、衣服はメイド・イン・USAにこだわり、音楽は利便性の高いiPhoneで聴く一方で、本当に好きなアーティストの作品はレコードで買うといった独自の価値観を持っていました。私は、佐久間裕美子さんの著書『ヒップな生活革命』を通じてこのアメリカの状況を知り、「日本もいずれそうなりそうだ」と、アナログ復活への確かな可能性を感じたのです。当時は経営的にも厳しい時期がありましたが、「レコードほど楽しいものはない」という思いがありましたし、妻からも「最後の一軒になれ」と背中を押されました。これまで店をたたまなかった理由を一言で表すなら、意地もあったと思います。

後編では、渋谷に眠るレコード文化の記憶を掘り起こす、武井さんの調査活動に迫ります。
取材・執筆:二宮良太 / 撮影:松葉理



