心躍る世界を、渋谷から。

SHIBUYA × WATCH

【渋谷さんぽ】歴史と文化が息づく街「渋谷三丁目・東エリア」を歩く
渋谷三丁目・東エリア

【渋谷さんぽ】歴史と文化が息づく街「渋谷三丁目・東エリア」を歩く

再開発工事が続く渋谷駅周辺のなかで、「渋谷三丁目・東」は渋谷駅から徒歩圏内に位置しながら、落ち着いた住宅街や歴史ある神社・旧跡などが多く、古き良き渋谷の街の雰囲気を残すエリアだ。近くに國學院大学、実践女子大学、渋谷区白根郷土博物館などの文教施設も集積し、繁華街、ビジネス街としての賑やかな渋谷のイメージは全くない。そこで今回は、歴史と文化が息づく街・「渋谷三丁目・東エリア」をお散歩して、今のまちの様子をウォッチしてみたい。

登ってみたい!渋谷のバベルの塔

渋谷ヒカリエ方面から青山通り(金王坂)、六本木通りを渡り、渋谷警察署の裏手からぶらぶらお散歩を始めてみよう。まず、歩き始めて最初に目に入るのが、圧倒的な存在感を放つ「渋谷のバベルの塔」だ。

このビルは、ミキプルーンでおなじみの「三基商事東京支社ビル」として、1985年に建築家・永田祐三さんによって設計されたもの。当時、竹中工務店の社員だった永田さんが独立前に手がけた最後の仕事であり、その独創的なデザインからも、組織向きの建築家ではないことがうかがえる。

2022年に三基商事は渋谷ヒカリエへ移転し、同ビルは現在、アップサイクル家具ブランドのポップアップショップなどが入居するテナントビルとして活用されている。

下から見上げると、ロッククライマーでなくても思わず「登ってみたい!」と声を発してしまいたくなるほど、見事な凹凸が施されている。

旧三基商事東京支社ビル
渋谷区渋谷3丁目9-7

渋谷城から金王八幡宮へ かつての渋谷の中心地

旧三基商事東京支社ビルの左先には、ドイツ自動車部品メーカー「BOSCH(ボッシュ)日本本社」のビルがそびえ立つ。が今春、本社は渋谷から横浜・センター北へ移転し、1階にあったボッシュカフェも閉店してしまった。居心地の良い空間だっただけに、残念だ。

金王八幡宮

その先には、渋谷駅周辺の氏神である「金王八幡宮」がある。鎌倉時代、度々戦の勝利を導いていた澁谷家(河崎基家)は、幸運の土地である渋谷郷に築城。その際に、源氏の氏神とされ「武運の神」として信仰された八幡が、1092年に創建された。その歴史は932年にも及び、現在の社殿は渋谷城の本丸跡に建てられている。かつての渋谷の中心地が、ここにあったことがうかがえる。1000年という長い歴史を感じながら、八幡宮周辺をのんびりと進もう。

金王八幡宮の参道には、各町会の御神輿を収納する倉庫がある。例大祭では、各町会の御神輿が渋谷の街を練り歩き、道玄坂109付近で神輿連合渡御が行われる

ちなみに金王八幡宮に隣接する「豊栄稲荷神社」は、かつて渋谷川の稲荷橋付近にあった「田中稲荷神社」と、道玄坂上にあった「豊澤稲荷神社」を合祀(ごうし)して創建された。

豊栄稲荷神社

鳥居が並ぶ光景は、写真映えするスポットの一つとなっている。なお、豊栄稲荷神社から分祀(ぶんし)された「東横神社」は、かつて東急東横店東館屋上にあった。が、駅周辺の再開発工事に伴い、現在は東急百貨店本社内へ遷座したという。

金王八幡宮/豊栄稲荷神社
渋谷区渋谷3丁目5-12

渋谷遺産、懐かしい看板建築

金王八幡宮の参道を進み、鳥居をくぐると、T字路になっている八幡通りに出る。

八幡通り側から大鳥居を見ているため、左側の坂下が並木橋方面、右側の坂上が六本木通り方面

坂を下ると、明治通りを挟み並木橋につながる。並木橋の右手には細い道があり、これが古くからの街道である「鎌倉道」だ。「いざ鎌倉」の掛け声で知られるように、鎌倉幕府の御家人であった澁谷氏は、この鎌倉道を駆け抜けて鎌倉へ向かっていたのだろうか。

一方、T字路の(金王八幡側から見て)左隣、大正初期から大鳥居脇で営業を続ける老舗の魚屋「魚玉(うおたま)」がある。まるで映画のセットのような「看板建築」の店舗は、昭和のノスタルジーを漂わせている。2000年代前半まで、空襲を乗り越えた看板建築群が道玄坂にも残っていたが、現在、渋谷駅周辺では見つけることができない。魚玉は、貴重な渋谷の遺産の一つと言える。

魚玉
渋谷区渋谷3-2-4

八幡通りのメタボリズム建築

八幡通りの反対側は、渋谷3丁目から東へと住所が変わる。坂をさらに上に進むと、右手に「メタボリズム建築」のような角張った幾何学的なデザインの建物が見えてきた。

1978(昭和53)年に建てられた地上8階建ての同ビルは、中上層階にマンションやオフィスが入居する「常盤松ロイヤルハイツ」、下層階に飲食店や物販店が入居する「ショッピングプラザ カミニート」で構成される。

「カミニート」という名称はスペイン語で「小道」を意味し、凸凹ユニットのテナントスペースが、小道・裏道・路地裏的な面白さを演出する仕掛けとなっているのだろう。建築家は定かではないが、独創的なデザインと空間構成から、アーティスト性を感じるデザイナーズ物件としてぜひチェックしてみてほしい。

常盤松ロイヤルハイツ/ショッピングプラザ カミニート
渋谷区東1-3-1

バケモノの子 聖地巡礼、渋谷図書館

八幡通り沿いにあるカフェ「REC COFFEE」(旧コーヒーハウス ニシヤ)横の路地を入ると、閑静な住宅街が広がる。國學院大學の通学路として利用されており、学生たちの往来が絶えない。実践女子学園高校沿いの道を進むと、右手にレンガ造りの旧渋谷区立渋谷図書館の建物が見えてくる。

1977(昭和52)年に建てられた同建物は、写真で見る限り小さな図書館のようであるが、実際は地下2階地上2階建ての大きさ。渋谷区内では中央図書館に次ぐ2番目の規模を誇った図書館であったが、老朽化に伴い、2022年3月31日に惜しまれつつ閉館した。

味わい深い赤レンガの外観に、「どこかで見たことがある!」とピンとくる人も多いのではないだろうか。実は、細田守監督が手がけたアニメ映画『バケモノの子』の劇中で、主人公・九太と楓が待ち合わせをする図書館のモデルとなったのが、まさにこの場所だ。聖地巡礼のスポットとしてアニメファンに知られた存在であるが、残念ながら解体が決まっている。

旧渋谷区立渋谷図書館
渋谷区東1-6-6

常磐松に込められた地名の由来

さらに旧渋谷区立渋谷図書館の左手には、渋谷区立常磐松小学校がある。

常磐松小学校は歴史が古く、1925年(大正14)年に東京府豊多摩郡渋谷町立常磐松尋常小学校として設立。「常磐松(ときわまつ)」という名称は、現在の「常磐松御用邸」(渋谷区東4丁目)付近にあった、樹齢400年を超える「代価壱千両」と称された立派な松の銘木に由来する。この松を源義朝の妻・常盤(ときわ)が植えたという伝説から名づけられたが、「皿は割れる」という縁起が悪い言葉であるため、漢字は「石」に改められたという。現在の東1丁目、東4丁目、渋谷4丁目、広尾3丁目にまたがるエリアは「常磐松町」という町名で親しまれていたが、1966年(昭和41年)の住居表示実施・町名変更に伴い、現在の東と渋谷に分割された。

ちなみに幕末まで、このエリアは薩摩藩島津家の特地だったが、明治時代以降は皇室に牛乳を献上する「御料乳牛場」となり、現在の御用邸や文教地区へと変化を遂げている。

渋谷区立常磐松小学校
渋谷区東1丁目7-10

渋谷区最古の神社と金王相撲跡

常磐松小学校とぶつかる道路を左手に折れた先には國學院大學、さらにその先には渋谷区立白根記念館、常陸宮邸宅がある。

築60年とは思えないモダンな「大泉ビル」

今回のお散歩コースでは、常磐松小学校前にある「渋谷図書館入口」の横断歩道を渡り、前方にある「大泉ビル(1963年)」脇の小道を進む。しばらく進むと、「渋谷氷川神社」へとたどり着く。

渋谷氷川神社の参道。木々が参道を覆い、静かで心地よい

氷川神社の創始は、渋谷区内で最も古いと言われている。ホームページによれば、景行天皇の皇子・日本武尊(ヤマトタケル)が東征の時、この地に素盞鳴尊(スサノオ)を迎えたとある。「日本書記」「古事記」に記載のある神話上の登場人物とも捉えることができるが、実在していたとすれば、弥生後期から古墳にかけての時代までさかのぼることができる。とにかく長い歴史を持つ神社であることが分かる。

渋谷氷川神社の本殿

御祭神は、素盞鳴尊(スサノオ)、稲田姫命(クシナダヒメ)、大己貴尊(オオナムチノカミ)、天照皇大神(アマテラススメオオカミ)。スサノオとクシナダヒメが夫婦神であることから、「いいご縁の日」にちなみ、毎月15日に「縁結び祈願祭」を行う。15日限定でハートマークやリボンをデザインした「縁結び御朱印」を頒布しているそうだ。

境内には地元の子どもたちが遊ぶ公園に隣接し、「金王相撲」の相撲場の跡がある。「世田谷八幡宮」「大井鹿嶋神社」とともに江戸郊外三大相撲の一つに数えられる。9月29日の祭日には、境内で力士による奉納相撲のほか、力自慢の村人が参加した取り組みも行われ、江戸の町からも見物人が集まるほどの人気だったと言われる。

「金王(こんのう)」とは、渋谷城が生んだ伝説的な英雄・渋谷金王丸に由来する。江戸時代に渋谷金王丸を主役とした歌舞伎が大人気となり、もともと「渋谷八幡宮」という名称だった神社を「金王八幡宮」と改名するに至るほど。さらに氷川神社の「金王相撲」も、やっぱり歌舞伎の影響からそう呼ばれるようになったという。当時、相撲は人気のスポーツであり、レクリエーションであり、歌舞伎は最高のエンターテイメントであったことがうかがえる。

渋谷氷川神社/金王相撲跡
渋谷区東2丁目5-6

渋谷のまちの原点

氷川神社の大鳥居を出て直ぐに「渋谷区立氷川区民会館」がある。

区民会館1階の店舗スペースには、若い女性に人気の「WOODBERRY COFFEE 渋谷店」がある

もともと同所に「渋谷町役場」があり、渋谷区の歴史を語る上で重要な場所と言える。1889(明治22)年、南豊島郡の上渋谷村・中渋谷村・下渋谷村、赤坂区の渋谷宮益町などが合併して渋谷村が誕生。そして1909(明治42)年には豊多摩郡渋谷町に昇格し、この地に「渋谷町役場」が開設された。

その後、1932(昭和7)年には東京市(現在の東京都)が周辺5郡82町村を編入し、20区を設置して35区に改編。その際、豊多摩郡渋谷町と隣接する千駄ヶ谷町・代々幡町が合併し、今日の「渋谷区」が誕生した。渋谷町役場は、区誕生後もそのまま庁舎として利用され、1936(昭和11)年に神南一丁目(旧電力館)へ移転。1965(昭和40)年に現在の宇田川町へ庁舎を移した。このように、このエリアは渋谷区最古の神社と最初の庁舎跡という、まさに渋谷まちの歴史の原点と言える場所だ。

渋谷区立氷川区民会館
渋谷区東2丁目20-18

渋沢栄一が尊敬する塙保己一とは?

さらに歴史深い施設として立ち寄ってほしいのが、氷川神社に隣接する「塙保己一史料館(温故学会会館)」である。その佇まいはモダンでありながらも、歴史を積み重ねてきた味わいと品を感じさせ、塙保己一(はなわ ほきいち)という名を知らなくても、思わず足を止めてしまうはずだ。

1927(昭和2)年に建てられた「塙保己一史料館(温故学会会館)」

さて、塙保己一とは、どんな人物だったのかのだろうか。江戸時代後期に活躍した全盲の国文学者として知られる。幼い頃に病気を患い失明したが、持ち前の努力と向上心で学問に励む。特に記憶力に富み、生涯をかけて6万冊ともいわれる文献を、一字一句間違えずに覚えたという。666冊もの膨大な文献を収録した文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」の編纂(へんさん)は、日本の学術史において偉大な功績として評価されている。

こうした保己一の功績を後世に残すため、1909(明治42)年に渋沢栄一、宮中顧問官 井上通泰、文学博士の芳賀矢一、保己一曾孫の塙忠雄の四氏により温故学会が設立。1927(昭和2)年、『群書類従』版木(国・重要文化財、17,244枚)の管理・保存を目的とし、「塙保己一史料館(温故学会会館)」が完成する。ちなみにヘレン・ケラーが幼少期にお手本にした人物としても知られ、来日時に同館を訪れ、保己一の功績に心から敬意を示したそうだ。

関東大震災の経験を生かし、堅固・耐震耐火構造を基本方針とした鉄筋コンクリート作りの同館は、すでに97年を経ているが、その佇まいや風格に変わりはない。

塙保己一史料館(温故学会会館)
渋谷区東2丁目9-1

渋谷三丁目、東エリアを散策してみると、このあたり一帯が丘陵地であることが実感できる。渋谷川の西側と比べると、坂道や段差が多く、歩きにくいと感じる人も多いかもしれない。この地形には、もともと同エリアが渋谷氏一族の居城があったことが関係しているのだろう。 金王八幡宮の西側斜面は、堀内(渋谷城のお堀の内側)と考えられ、西から南の低地は渋谷川を利用した水堀だった可能性がある。丘陵地形は、城郭を築く上で非常に重要な要素だったと言える。今日、このエリアには白根記念渋谷区郷土博物館・文学館、國學院大學博物館、氷川神社、金王八幡宮などの施設が集積し、都内屈指の文教地区となっている。 高台にあるため、かつて氾濫を繰り返していた渋谷川の水害を受けにくく、文化財を保管するのに適した場所だったとも言える。地形がまちの形成に少なからず影響を与えているのではないだろうか。

さらに、ふと視界が開けた高台からは、渋谷の街並みが一望できる。にぎやかな渋谷の喧騒を忘れ、歴史と文化が息づく渋谷三丁目・東エリアの散策を楽しんでみてはいかがだろうか。

お散歩の締めくくりは、創業100年以上を誇る老舗銭湯「改良湯」で、ひと汗流して帰ることをおすすめ。お散歩の疲れを癒し、心身ともにリフレッシュしてみては。

改良湯(渋谷区東2丁目19⁻9)。クジラの絵が目印。散歩時はタオルやサウナハットなどの「お風呂セット」も持ち歩きたい。

写真撮影・松葉理

今回のお散歩コース「渋谷三丁目・東エリア」

取材・執筆

編集部・フジイ タカシ

渋谷の記録係。渋谷のカルチャー情報のほか、旬のニュースや話題、日々感じる事を書き綴っていきます。